2021.07.18 《「古典芸能」鑑賞ふたつ》

これまで落語という芸は「古典芸能」と「大衆芸能」の両面を持ち合わせてまいりました。前者の代表は能や歌舞伎、後者の代表は喜劇や漫才。そして、落語はその両方を兼ね備えてきたと…。例えば、古典を継承しながらも常に新作を発信している点や、どんな古典の演目であろうが事前に「筋書き」などの解説書を読む必要が全く無いという点が、その理由です。それゆえ、私は(恥ずかしながら)ある種の自負さえ感じてきたのも事実です。

でも、ある日、ふと思いました。うかうかしてると、落語ってどちらにも入れてもらえなくなる日が来るのではないだろうか…と。

私自身、もっと能や狂言、文楽や歌舞伎、さらには伎楽や雅楽の知識を深めようと思いながらも日々の仕事や雑事に追われ、なかなか研鑽を積むことが叶いません。では、大衆性に対してどうかと言うと、いつの頃からか、新聞や雑誌の催事案内で、なんと落語が「お笑い」から外されているのです。「お笑い」は漫才だけとなりました。「古典芸能」は能や狂言、歌舞伎や文楽が席巻しています。もちろん「クラシック」や「ミュージカル」のジャンルに落語が入るわけはありません。そう、実は落語って特異な存在だったのです。

落語を演じるにおいて「古典にも大衆性にも長けてこそ完成の域に入れる」のかと思うと、しばし茫然としてしまいます。演者次第で、どうにでもなる。大きな可能性を秘めた儚い芸能 —— それが落語でした。

そんな思いを持ちながら、今月、ふたつの古典芸能を鑑賞しました。

まずは、大槻能楽堂で行われた「ろうそく能」による『鉄輪(かなわ)』。作者不詳。夫に逃げられた女が貴船神社で神託を受け、鬼の形相で元夫を苦しめる。その男は安倍晴明に命乞いをし、さぁ女は…という情念が燃えたぎる筋書きです。

この日はお能の前に、井上八千代さんによる京舞での『鉄輪』があったのですが、これが良かった。能舞台での京舞。脇正面から観ていたので、腰の位置や足運びなど、井上流の奥義を垣間見た気がしました。そして後半、大槻文蔵さんのシテによる『鉄輪』を堪能。大いなる学びとなりました。

ところで私、かねてより能の上演方法については私見があるのですが、それはまた別の機会に(^^;)

もう一つは、松竹座での七月大歌舞伎、夜の部。『双蝶々曲輪日記』より「引窓(ひきまど)」と、『恋飛脚大和往来』の「新口村(にのくちむら)」。

「引窓」では片岡仁左衛門さん、片岡孝太郎さん、松本幸四郎さん、上村吉弥さんらによる呼吸(いき)の合った人情劇を堪能。「新口村」では中村鴈治郎さん、中村扇雀さん、坂東竹三郎さんらによる心中物を堪能しました。

特筆すべきは「新口村」の配役。初めて鴈治郎さんが忠兵衛と孫右衛門の二役をするという企画だったのですが、鴈治郎さんが別の芝居に出ている時に、その舞台のとある役者さんが「コロナ」に感染し、鴈治郎さんが「濃厚接触者」となったため、初日からの一週間、梅川役だった扇雀さんが急遽忠兵衛と孫右衛門をすることに、そして壱太郎くんが梅川を演じることになったのです。これが良かった! 瓢箪から駒💫 扇雀さんの孫右衛門は初役とは思えぬ落ち着きと渋さが光り、壱太郎くんの梅川は愛らしく可憐でした。

今回は私、関西学院大学古典芸能研究部のインタビューも兼ねていたので、千穐楽近くにもう一度劇場へと足を運び、復帰した鴈治郎さんの舞台も観ることができました。同じ芝居を異なる配役で見るのは面白いですね。歌舞伎の醍醐味を満喫しました。インタビューの様子は次の機関誌「こてん」に掲載予定。乞う、ご期待!