2021.04.20 《弘昌寺、上方文化再生の礎に》

この春、大阪ミナミのトリイホールが「千日山 弘昌寺」として生まれ変わりました!

トリイホールは、上方ビルの4階に設けられた100人収容可能の多目的スペース。1991(平成3)年4月にオープンして以来、落語・講談・浪曲・漫才などの演芸や、演劇、音楽会など、さまざまな分野の芸能活動の場として使われてまいりました。経営者は、私と同世代の鳥居学(とりい・まなぶ)さんでした。

それ以前は、今は亡き鳥居さんのお父さまが「上方」という名の旅館を経営されていたのです。演芸の殿堂「角座」と背中合わせに建っていたので、角座の楽屋口と旅館の勝手口が向かい合わせとなり、そんな誼(よしみ)で東京からの噺家の師匠連が定宿にされていたんだそうです。歌舞伎役者のご贔屓もおられたとか。

しかし、時代とともに大阪の街中では旅館経営が難しくなり、お父様が他界。しかもバブル経済が起こされ、ミナミでは地上げ屋が横行し、「土地を守るにはグルメビルにするしかない」と思い立った学さん。斬新な上方ビルを建ち上げることを決意。丁度その頃、学さんのお父様と昵懇だった私の亡き父(桂米朝)が「鳥居くん、ビルの一角に噺家の若いもんが研鑽を積めるようなスペースが作られへんかいな」と打診したことから、急遽、ホールが作られることに……。

実は私、その頃は学さんの存在すら知りませんでした。桂小米朝という名前で(かなり気散じに)噺家としての修業を続けておりました。一方、鳥居学さんも、旅館「上方」の家に生まれながらも心斎橋の大丸に就職し、(おそらく優雅な)サラリーマン生活を送っておられました。しかし、親から譲り受けた土地を守るべく、第二の人生が始まったのであります。

まもなく上方ビルが竣工するという頃、突然、父が私に「おい、小米朝! 鳥居くんがホールを作ったさかい、落語会なり何なり計画してやるように」と言うではないかいな。「えっ、あ……はい」と答えた私は、下見に行ってビックリ玉手箱……ならぬ、なんてバコ! 舞台上の天井が異様に高く、客席は横長な割りに奥行きがなく、中ほどに大きな柱があってその後ろは死角になるという、まさに落語会には不都合極まりない空間だったのです。私が鳥居さんに「せめて設計図の段階で見せてくれたら良かったのに」と言うたら「図面は何度も米朝師匠にお見せしました」やて。見せる相手、間違うてるがな(^◇^;) それでも、無い知恵を振り絞り、いろんな形の落語会を企画。毎月1日開催の「トリイ寄席」は300回を数えるに至りました。

鳥居さんにとっての一番の試練は資金繰りでした。竣工間近にバブルが崩壊し、開業とともに10億円の負債を抱えることに……。よくぞ死なずにここまで来られたものだと感服いたします。数回にわたる倒産の危機を乗り越えるうちに、鳥居さんは自身の出自の秘密を知ることになります。産みの親の出現! そして、その方のご先祖は隠れキリシタンだったことが判明。同時にその頃、道頓堀の歴史が明らかになったのです。「大坂夏の陣」での死骸の山を処理したのも、道頓堀を開削したのも隠れキリシタンであり、その陣頭指揮を執ったのは(安井道頓ではなく)成安道頓だったことが分かりました。「なりやす」、音読みすれば「ジョアン」です。

「先人を供養すべし」「千日、供養すれば、極楽浄土に行ける」と祈りを捧げたのが「千日前」の語源です。「千日まいり」で多くの人が集うようになり、元禄期には道頓堀で文楽が生まれ、歌舞伎が栄え、落語も産声を上げたのです。芝居小屋は五つも誕生。道頓堀五座は近年までありました。しかし、大阪人が道頓堀の歴史を忘れ、バブル経済に踊らされた結果、惨憺たる状況となってしまいました。

「道頓堀から舞台芸術が消えたら、大阪は終わりや。何とか上方文化の火種を灯し続けたい」。そう考えた鳥居さんは、真言宗山階派の僧侶となり、先人への鎮魂と大阪ミナミの再生を願い、護摩を焚くこと三千日。竣工から30年を経て、トリイホールは「千日山 弘昌寺」に生まれ変わったのです。落語にはイマイチ収まりの良くない空間でしたが、お寺になると天井の高さも何もかも申し分ありません。ピッタリなのです! 「この日のために作られたホールやったんやなぁ」 今月14日の落慶法要では感慨も一入(ひとしお)。三十年間の思い出が脳裡を駆け巡りました。

弘昌寺のご本尊は何と烏枢沙摩(うすさま)明王! 不浄の地を清める明王さまです。

2021年が上方文化再生に向けての元年となりますように✨