2014.11.21 《二年ぶりに、奈良県の山あいを堪能 [前編]》

17日(月)、私は神社仏閣参拝仲間の明神ファミリーとともに奈良県吉野郡天川村への旅に出発(^0_0^)
  
そう、前回訪ねてから、ちょうど二年ぶりの訪問です。
 
今回は奈良県吉野郡吉野町を経由して天川村に入ることに──。
 
実は私、恥ずかしながら、まだ一度も吉野を訪れたことがなかったのです。したがって、下千本・中千本・上千本の桜もまだ目にしたことがありません。「吉野の桜はきっと素晴らしいだろうけど、花見の時期は人出も凄いだろうから覚悟して行かねば」と思っているうちに、いつしか55歳になっておりました(^^ゞ
 
しかし、ずっと「いつかは行きたい」と思っていた土地。吉野と言えば、桜。そして、役行者(エンノギョウジャ=役小角)が建てたと言われている金峯山寺(キンプセンジ)。尤も、金峯山という山は存在せず、吉野の山並みから修験者の聖地である山上ヶ岳や八経ヶ岳までの大峰山系全体を「金峯山」と言うんだそうです。
 
今回は桜の時期とは真逆でしたが、素敵な紅葉が味わえました。
 
大阪からクルマで約2時間──。まず目にしたのが、吉野神宮。
 
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綺麗なモミジが我々を迎えてくれました。
 
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ご祭神は後醍醐天皇。南朝方の総帥です。
  
創建は明治25年のこと。ずいぶん新しいんやなぁ…。訊けば、明治天皇の勅命により、それまで吉水神社(ヨシミズジンジャ)にあった後醍醐天皇像を移し、吉野神宮としたのだとか。
 
なるほど…。「明治天皇は、実は南朝方の末裔、大室寅之助であった」という説がありますが、さもありなん。
 
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それはさておき、ここ吉野は南北朝時代に無念の思いで亡くなった人達の鎮魂の場所でもあるようです。
 
吉水神社はかつて後醍醐天皇の魂を奉安するため、第七皇子の後村上天皇が金峯山寺の傍らに「吉水院(キッスイイン)」という分院を建てたのが始まり。やがて、明治時代の神仏分離令により独立。後醍醐天皇と、湊川の戦いで討ち死にした楠木正成(クスノキ・マサシゲ)公をご祭神とする神社になったのだとか。
 
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また、谷を隔てた山中には後醍醐天皇が身を寄せていた如意輪寺があります。ここでは正成公の長男、正行(マサツラ)公が四條畷の戦いに臨む際、「かへらじとかねて思へば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」という辞世の歌を奉納したと伝えられています。
 
そう言えば、古くは大海人皇子が壬申の乱を起こす前に密かに暮らしていたのも吉野やったなぁ。
 
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隠遁が似合う所なんですね。
 
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さて、その総本山である金峯山寺では、普段は秘仏の蔵王権現が「世界遺産認定10周年」を記念して、今月限定の特別開帳をしていました! めっちゃラッキー☆☆☆
 
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釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩を合わせた力を持つをされている鮮やかな青色をした三体の蔵王権現は実に雄々しく、大きな力を戴けたような気がしました↑↑↑
 
その後、近くの大日寺に立ち寄ったところ──。
 
ご住職が笑顔で話しかけて来られました。「ここの仏像は平安初期の作です。大日如来を中心にして周りに四体の如来が揃ってるっちゅうんは、なかなか無いことですねん」
 
ご住職の話に耳を傾けながら拝見する大日如来の顔は、神々しさに満ち溢れていました☆
 
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ここは元は日雄寺と称した大海人皇子ゆかりの吉野で最古の寺なのだとか。元弘の乱(1333年)で吉野落城の際に、護良親王の身代わりとなって忠義を尽くし、壮絶な最期を遂げた村上彦四郎義光、義隆親子の菩提寺でもあるとのこと。やはり、ここも“南朝”への思いが詰まったお寺だった!
 
悠久の歴史に思いを馳せていると、ご住職から「今月23日の“火渡り”に来ませんか」とのお誘い。年に一度、大護摩を焚いて、その置き火の上を裸足で踏み歩く儀式なのだとか…。「大人より子供のほうが平気で渡りますねん」「面白そう…でも、23日は来れないと思います。けど、いつか必ず参りますね」と告げて、お寺を後にしました。
 
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その後、お食事処「はるかぜ」で食べた“葛うどん”と“柿の葉寿司”──。
 
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めっちゃ美味しかった(^q^)
  
夕刻、吉野郡天川村の久保治旅館へと到着。温泉に浸かり、美味しいお酒と料理に舌鼓を打ち、ほろ酔い気分で流れ星を仰ぎ見て、床に就きました☆~☆
 
      (次に続く)