2014.06.28 《母、逝去》

アクトシティー浜松での『東西競演落語会』が終わり、ざこば兄さんと新幹線で帰阪した時、「母、危篤」というメールが入りました。

 

私の母はパーキンソン病がきっかけで、もう10年以上も病床にあり、3年ほど前からは余儀なく入院生活を続けておりました。

 

これまでにも何度か「緊急を要する状態」と言われたことがあった母。この日ばかりは少し様子が違うように思い、帰宅してすぐに病院へ急行──。すでに日付が変わり、27日(金)になっていました。

 

母の呼吸は荒く、殆んど意識もない状態。しかし(前日にも病院に行ったのですが)、昨日よりは穏やかに見えたので、少し安心していました。

 

すると、そこへ透と渉、二人の弟も来訪──。「病院で三人が揃うのも久しぶりやなぁ」と、ベットで寝ている母を囲んで、談笑が始まりました。

 

母の表情も心なしか落ち着いたよう。看護師さんも「やはり、息子さんが揃うと違いますね」とおっしゃいました。皆が笑顔になった時、突然、心電図や脈拍や血圧を表示する計器からアラーム音が発生!

 

母は瞬間的に“あちら”へ行く表情に変化。私は思わず、「ありがとう!」と叫びました。いろんな「ありがとう」でした。「日本舞踊を教えてくれて、ありがとう」、「ソッと着物を拵えてくれて、ありがとう」。そして何より「産んでくれて、ありがとう」。逆子で斜頚で先天的脱腸で…八割方死ぬと言われていた私をよくぞここまで育ててくれました☆

 

実は、母が病床にあっても、しょっちゅう喧嘩していた私ですが、この時は感謝の気持ちしか浮かびませんでした。

 

すぐに、お医者様が駆けつけて下さり、瞳孔・脈拍・心音をチェック。午前1時1分、死亡を確認。

 

二人の看護師さんが泣いて下さいました。三好病院の岩坪先生、看護師さん、そしてヘルパーの皆さん、長いことお世話下さり、本当にありがとうございました。

 

さぁ、しかし、これから私の最も長い一日が始まったのです。

 

葬儀をどうするか…。母とご縁のある方々が集まりやすいように、「地元・尼崎で、駅に近い葬儀会場にしよう」ということで、ベルコ尼崎駅前ホールに電話。深夜にも拘わらず、すぐに了解していただき、午前3時半に担当の北田さんが病院に来られ、ホールに移動。午前4時過ぎから通夜~葬儀の打ち合わせを開始。

 

実は、私の仕事の関係で、27日(金)の通夜~28日(土)の葬儀でないと、一週間以上も遅らせざるを得ない状況にあったのです。

 

「なんとしても今日から明日にかけての葬儀でお願いします」。私の無理な注文に真摯に応じて下さり、一時間半ほどで大体の段取りが組まれました。

 

うちは神道。尼崎・富松神社の善見宮司に祭主を引き受けていただくことも叶い、ホッと一息。

 

この時、時刻は午前8時。この日、私は二つの仕事を抱えていました。まずは午前10時半からピアニストの仲道郁代さんとの対談(毎日新聞「おんなのしんぶん」)。その後、午後2時から大阪・淡路町の創元社で「米朝落語全集」完結に際しての記者会見。それを済ませて、午後4時の親族打ち合わせ、午後7時からの通夜祭に臨んだのです。

 

過密スケジュールにも拘わらず、着々と準備が整って行ったのは、上方落語協会と米朝事務所の事務員さんが手伝いに来て下さったからです。

 

新聞やネットニュースにも母の訃報が載ったことから、式場にどんどん届く弔電と供花の山。それらを見事に整理して下さいました。

 

本来なら、喪主は父・米朝とすべきところですが、なにぶん高齢のため、長男の私が喪主を勤めることに…。

 

昨日から今日にかけて、本当に多くの方が弔問に訪れて下さいました。

 

日付が変わって、28日(土)の葬儀が終わるなり、私は大阪・岸和田の浪切ホールに走り、「桂米朝一門会」に出演。私は敢えて「地獄八景亡者戯」の前半部分を口演。お客様と“あの世ツアー”を楽しみました☆☆

 

今、実家に到着。祭壇に手を合わせ、ようやく一息ついたところです。

 

中川絹子(享年、満88歳)。

 

 

 

遺影は、かねてより母が一番気に入っていた50代のもの(^-^ゞ かつて自身も入っていた大阪松竹歌劇団(現、OSK日本歌劇団)のミニチュア・パラソルとともに(^0_0^)

 

沢山の方々に送られた母は幸せ者です。きっと素敵な旅立ちをしたことでしょう☆☆☆

 

皆様に感謝(^人^)

 

明日、29日(日)は東京・銀座での独演会──。精一杯勤めます↑↑↑