桂小米朝の「新・私的国際学」<28>(2003年11月2日)

夢路いとしさんが亡くなった。弟である喜味こいしさんとコンビを組んで六十余年――。いとこい師匠の漫才は、われわれ上方の芸人の範であった。決して客をいらわず、こびず、それでいて必ず客席に笑いの渦を巻く・・・。常に新作を手掛ける意欲――頭が下がった。『我が家の湾岸戦争』に見られるように国際紛争をも笑いで丸く収める。生涯、〝王道〟を歩んだ兄弟漫才。

先日、いとしさんのお別れ会が大阪市内のホテルで開かれた。関西の芸人が全員集合したかと思うほどの賑わいぶりだった。お別れ会に「賑わい」とはおかしな話だが、実際そうだった。漫才、落語、講談、浪曲、奇術、音楽ショー・・・、いとしさんの芸とお人柄を慕って、沢山の芸人がジャンルを越えて一堂に会したのである。

親父(米朝)の「ぎっしり入っていただきましたが、今日は大入り袋は出まへん」という一言で緊張が解かれ、あとは終始なごやかな雰囲気で進行した。

次々と芸人が弔辞を述べるのだが、都度、笑いと拍手が起こる。戦中戦後の巡業を体験した逞しい先輩たちが思い出話に花を咲かせている。いつしか関西芸人の大きな同窓会と化していた。この会場に居合わせてこの上なく光栄だった。檀上で「親父の時も今日みたいに集まって・・・」と調子に乗るほど私は高ぶってしまった(少しヒンシュクをかってしまったかもしれない)。

芝居やドラマにも精力的に出演されていたいとしさん(最後は『てるてる家族』でのスケートの貸靴屋)。その中には海原小浜、タイヘイ夢路、京唄子、若井みどりといったかつての漫才スターたちの姿もあった。こうやって見ると、相方に先立たれた方、多いんやなあ。

そして会の締めくくりに、こいしさんが涙ながらにマイクを持って話された。「私は、兄貴がいてくれたからここまでやって来られました。あの相方なしにはもう漫才はやれません。漫才師とはそういうもんです。しかし、私はまだ生きて行かなあきまへん。よろしかったら、何なりとお声をかけてくださいませ」

こいしさんに昔の話をどんどん聞かせてもらおう・・・、私はこの日を心に刻んだ。

※一言追加・・・そのこいし師匠も平成23年1月23日に他界されました。これからは芸能界の古い話はもっともっと父親に訊いておこう…なるべく早いうちに。