桂小米朝の「新・私的国際学」<20>(2003年8月24日)

新幹線の自由席に乗るたび思う。自由って何やろと・・・。自由席と言いながら禁煙席が増えてゆき、若い女性の隣にオッサンが座ると嫌がられ、混雑すると「自由席のお客様!ご協力を」と放送される。

ちなみに、自由席を英語で言うと、NON RESERVED SEATS。すなわち「指定されていない席」という意味。自由という単語を英訳すると、フリーダムか、リバティになるが、両方とも自由席の場合には用いない。間違えてフリーシートと訳したら「無料席」になってしまう。

ところが、日本では「自由席」という言い方が定着している。だれが名付けたのだろう。どうもわれわれは自由という言葉をいろんな場面で使う傾向にあるようだ。「パンフレットをご自由にお取り下さい」「行くか行かないかは君の自由だ」「彼女は六カ国語を自由に話す」。いずれも、英訳すると、フリーやリベラルといった形容詞は用いない(和英辞典を照覧あれ)。

それだけ日本は「自由」が融通のきいた言葉になっている。だが、その分、あいまいだ・・・。英語はあくまでフリーダムかリバティ。束縛から解放された、いわば生きる権利を勝ち取る意味合いが強い。実は、このイメージの相違にこそ、日本人の知らぬ間に、一部で、貿易不均衡が助長されている要因もあるように思うのだ。

例えば、「穀物メジャー」と呼ばれるカーギル社の大きな成長の陰には、アメリカ政府による「国内業者には補助金を出し、外国には自由化を要求する」という二重基準が存在する。西アフリカのブルキナファソ国のコンパオレ大統領が綿花の自由化を迫られ、世界貿易機構(WTO)で「米国の綿花輸出価格が57%もダンピング(不当廉売)しているのはおかしい」と叫んだ。しかし、日本人の多くは自由化をなんとなく「平等化」ととらえてしまっている。

そろそろ、自由化とは「強者がさらに勝ち、弱者が負ける規制撤廃のこと」と訳してはどうだろう。