トップへ

小米朝流「私的国際学」<36>(2001年9月29日)

 TOP » 過コラム一覧 » ①産経新聞「小米朝流・私的国際学」 » 小米朝流「私的国際学」<36>(2001年9月29日)

昨夜、私は東京都文京区の護国寺にいた。古今亭志ん朝師匠のお通夜で・・・。志ん朝師匠を亡くしたことは落語会にとって大きな損失である。


生粋の江戸っ子だった。そして、その生粋さはコテコテの大阪人に受け入れられた。これほど上方の噺家に慕われた落語会を私はほかに知らない。明るくて、いなせで、面倒見が良くて・・・。これから東京の、いや日本のリーダーだというときに、病魔が襲った。


昭和13年生まれの美濃部少年は、19歳で父・古今亭志ん生のもとに朝太という名で入門した。二年後、二ツ目に昇格。当時、私は桂米朝の長男としてこの世に生を受けたばかりだった。米朝宅に、若き日の朝太さんが訪ねてきたとき、私の母は思わずつぶやいたそうな。「しもた!結婚早まったわ」と・・・。


入門5年で、真打に昇進。高座がキラ星のごとく輝き、芸術選奨・文部大臣新人賞を受賞。おわかりだろう、私とはえらい違いだ。少しでも近づこうと思うが、いまなお大きな隔たりがある。


私が初めて聴いた師匠のネタは『火焔太鼓』。感動のあまり、しばらく席から立てなかった(師匠はすぐに立ち去ったが・・・)。『船徳』『お見立て』『居残り左平次』・・・、どれを取っても洗練されている。まるでクラシック音楽を聴いているようだった。


ここ2年ほど、糖尿病が悪化して、やせられたのが気がかりだった。今年8月、肝臓がんが末期状態であることを知らされた師匠は、おかみさんの反対を押し切って、浅草演芸ホールに出演した。落語のほかに、お得意の『住吉踊り』を華麗に披露。その後、休養宣言をされ、ひと月余りで帰らぬ人となった。死ぬまで輝いておられた。

 

ここに、一枚の年賀状がある。今年の正月に師匠から私あてに送られたものだ。しかもドイツ語・・・。独協学園高校出身の師匠は語学が堪能で、大の海外旅行好き。でも、世界のどこへ行かれても〝江戸前〟を貫かれた。本日お葬式、合掌━。